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2022年12月19日(月)
【2022年10月の旅 福井の旅】
2022年10月の旅 福井の旅

?越前大野城は織田信長の時代に築城され、城下町とともに栄えました。以来、「越前おおの」の地のシンボルとして多くの人々に愛され続けています。

1575年、信長は金森長近と原政茂の両名に命じて、大野郡の一向一揆を収束させました。その恩賞として、大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。翌年、長近は亀山に平山城の城郭と、その東麓に、大野が「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めました。

城下町とは戦国時代から始まった都市の形態のひとつで、城の防衛施設であるとともに、行政・商業都市として機能してきました。1576年に安土城を築いた織田信長は、兵農分離により武士を城下に住まわせ、楽市楽座によって商工業の発達を活発にしました。これが、近世城下町の発展に大きく貢献したといわれています。

大野の城下町は、この信長の初期親衛隊「小姓衆・赤母衣衆」であった金森長近によってつくられました。大野の地が長近に与えられた理由は、この当時、信長は度重なる「信長包囲網」によって全国の戦国大名を相手に苦戦を強いられており、東海から北陸へのルートを「岐阜城」「郡上八幡城」「越前大野城」によって統治下に置いて、この包囲網を分析することが目的だったと考えられます。

大野市の碁盤の目のような通り、その七間通りにたつ朝市は、400年以上の歴史を誇っています。全国的にも珍しい地面に農産物や加工品を並べ生産者とお客さんが楽しい買い物を行える朝市です。この日はハロウィン仕様になっていました。

信長の部将金森長近が大野へ入封後、京の都に模して碁盤の目の町づくりをはじめました。町の東端に寺院を集めて「寺町」をつくり、そこから西に向かって、五番・四番・三番・二番・本町通りを配置したのです。南北に並んだ約20ヶ寺が、市民のこころの拠り所として親しまれてきました。現在、「寺町」という名は行政上はありませんが、城下町大野を象徴する町並みとして、人々にやすらぎを与えています。







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