2017年5月26日(金) 【2017年4月の旅 山形の旅B】 お墓文化が変わりつつある今。 お墓が作られることが減ってきている。しかも手付かずのお墓が増えてきている。 自分が死んだときはどうなるんだろうなぁ…。 上杉家廟所 1623年上杉景勝逝去の折、当地を廟所とし、以後、11代藩主斉定まで歴代藩主がこの地に埋葬されています。明治新政府は「破城令」を発し、1873年、米沢城は解体され、1876年城内祠堂の謙信公尊骸は、当廟所中央に移葬されました。国指定史跡。 米沢では「御廟」または「おたまや」と呼ばれ、親しまれてきた。御廟は、東西約113m、南北約180mで、約2haの面積を有し、柵の外側には、幅約3.6mの空堀と土塁が廻らされています。江戸時代初期から後期までの歴代藩主の廟が一つの場所に並置されるのは珍しく、近世大名家墓所の代表例とされています。 米沢藩初代藩主上杉景勝 安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。母は仙桃院(謙信の姉)。謙信の死後、もう一人の養子、影虎との御館の乱に勝利し、武田信玄の娘、菊姫と結婚。越後を統一し、佐渡・出羽庄内・北信濃をあわせ90万石余の大領国を確立しました。 1598年会津120万石に国替され、豊臣五大老の一人となり、1600年徳川家康と敵対し、翌年米沢30万石に減封となりました。69歳で米沢城にて没するまでのその生涯は戦国から天下統一、江戸幕府による安定という時代の転換の中にありました。 なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり 有名な言葉を残した米沢藩9代藩主上杉鷹山ももちろんここに。 5/26^00:00 <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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