♨全国Hの旅♨

2017年11月7日(火)
【2017年9月の旅 兵庫の旅】
2017年9月の旅 兵庫の旅

全国屈指の山城遺構 国史跡 竹田城跡

晩秋のよく晴れた早朝に朝霧が発生し、雲海に包まれた姿は、まさに天空に浮かぶ城を思わせ、いつの間にか「天空の城」「日本のマチュピチュ」とも呼ばれるようになり、但馬地方の風物詩になっているのは有名じゃないかな。雲海に包まれた姿をぜひ一度は見てみたいなあ。

そんな竹田城の歴史は1441年にさかのぼる。嘉吉の乱勃発後、山名氏と赤松氏の間に深刻な対立が生じていた。竹田城はこの時、赤松氏に対する山名氏方の最前線基地のひとつとして築城された。以後、太田垣氏7代にわたり城主となるが、1577年、羽柴秀吉の但馬攻めにより、羽柴秀長が城代となった。これ以降、竹田城は織豊方の拠点城郭として機能した。

1580年、羽柴秀長は出石・有子山城に入り、その後、竹田城は秀長の属将・桑山重晴に預けられた。さらに1585年、桑山重晴が紀伊和歌山城代に転じると、赤松広秀が城主となった。



竹田城は、播磨・丹波・但馬の交通上の要地に築城された。築城当初の姿は不明な点が多いが、石垣遺構周辺に存在する曲輪から判断すると、現在の本丸・天守台の存在する山頂部から三方に延びる尾根上に曲輪を連続的に配置し、堀切や堅堀で防御性を高めていたもと思われる。

一方、織豊期以降の竹田城は、最高所の天守台をほぼ中心に置く石垣城郭となり、本丸以下南方には、南二の丸、南千畳が、北方には、二の丸、三の丸、北千畳を築いている。さらに、天守台の北西部には、花屋敷と称する曲輪がある。ここは、主部の中でも搦め手の位置にあたるため、南北には、向かい合った石塁を築き、防御性を高めている。これらの石垣遺構周辺には、多くの石取場が確認されている。大堅堀や登り石垣なども確認され、倭城の築城形態に倣った作りとなっている。なお、竹田城の規模は、南北約400m、東西約100mを測り、今もなお当時の威容を誇っている。





11/7^00:00


<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。




w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
++新着日記++