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2021年7月18日(日)
【2021年6月の旅 愛知&静岡&神奈川&山梨の旅その12】
2021年6月の旅 愛知&静岡&神奈川&山梨の旅その12

?敵対関係にあった人のゆかりの場所を復興させたりしてたなんて、全く知らなかった。さすがは家康だと思っちゃった。武田氏への信仰の強かった人達の意を汲んでやったんじゃないのかなあ。そうすることによって信頼を得て、支配しやすくするために。

?恵林寺は臨済宗妙心寺派の名刹である。1330年に、甲斐牧ノ庄の地頭職をつとめていた二階堂出羽守貞藤が、夢窓国師を招き、自邸を禅院とし創建した。

武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川和尚の入山で寺勢を高め、1564年には信玄自ら寺領を寄進し当山を菩提寺と定めた。

1576年4月、遺言通り3年間の秘喪の後、武田勝頼は快川国師の導師のもと、父信玄の盛大な葬儀を厳修した。しかし1582年3月、勝頼は時運を味方につけることができず天目山下に自刃、甲斐武田氏は滅亡した。同4月3日、恵林寺は織田信長の焼き討ちにあい、快川国師は「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」と言葉を残し、百人以上ともいわれる僧侶等とともに火に包まれた。

同6月3日、「本能寺の変」によって信長が斃れた後、徳川家康の手により復興され、また徳川五代将軍綱吉の時代に甲斐国主となった柳沢美濃守吉保の庇護で寺運は発展、柳沢吉保嫡男の吉里の代に柳沢家は奈良大和郡山に転封となるも、吉保夫妻は恵林寺を菩提寺として霊廟をもうけた。

恵林寺とともに徳川家康の命により建立されたのが景徳院。武田家終焉の地。境内には武田勝頼公親子が自刃した生害石やお墓がある。諸堂は焼失してしまったが、山門のみが火災を免れ当時のままの姿を残している。勝頼公の辞世の句「おぼろなる月もほのかに雲霞晴れて行くへの西の山の橋」は有名です。









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