♨全国Hの旅♨

2017年6月20日(火)
【2017年5月の旅 長野の旅F】
2017年5月の旅 長野の旅F

雨の予報のときに明日は悪い天気ですって、テレビでは言わないんだよね。それはすべての人が雨の日が悪いとは思わないから。だから「あいにく」の天気って言うんだよ(笑)



レイニーブルー?

雨にしたたるいい女?

いや、雨にしたたる藤の花もいいもんだ!



訪れたのは高島城。別名は諏訪の浮城や島崎城と呼ばれている。城郭の形式は連郭式平城。かつては諏訪湖に突き出した水域で「諏訪の浮城」と呼ばれていたが、江戸時代はじめに諏訪湖の干拓が行われ、水域の面影は失われた。しかし、浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城の一つに数えられている。

1590年、当時の諏訪領主諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に従って武蔵国へ移った後、豊臣秀吉の家臣日根野織部正高吉が諏訪に転封、2万7千石を与えられ諏訪の領主となった。高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手。転封の1591年にはすでに城地の見立てと設計を終え、1592年に着工、1598年まで7年ほどかかって高島城を築城。城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから別名「諏訪の浮城」と呼ばれ、また「諏訪の殿様よい城持ちゃるうしろ松山前は海」と歌われた名城。

その後、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水は1601年家康の恩恵によって旧領諏訪に帰り藩主となり、以後、10代藩主忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇った。



日根野氏によって総石垣造で8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが建て並べられ近世城郭の体裁が整えられたが、軟弱な地盤であったため、木材を筏状に組、その上に石を積むなどの当時の最先端技術が用いられた。それでも石垣が痛みやすく、度々補修工事を加える必要があったという。

7年間の短期間で築城したため、かなり無理をしたらしく、地元では「過酷な労役に苦しんだ」「石材を確保するため、金子城の石材は全て持ち出したほか、墓石、石仏も用いられた」などの伝承が残っている。











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